2003年9月の日記
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9月2日 

 東京都内をぐるっと回る山手線。度を越した残暑の中、冷房の効いた車内で冷えたミネラルウォーターを少しずつ口に含みながら、ジーンズの型に切り出した大きな紙に透明のカバーがかかっている妙な中吊り広告や、文字ニュースとTV風CFが交互に流れるヴィジョンなど、あちらこちらを眺めていた。

 車両のつなぎ目にドアがないので、近くに立っていると進行方向から冷風がやって来る。つなぎ目の向こうの隣の車両では、けたたましく鳴る携帯電話を悠々と取り出す初老の紳士の頭上で、携帯電話の電源を切れと促すアナウンスが繰り返し流れていた。




 車両の中ほどに視線を移すと、どの駅から乗ってきたのか気づかなかったが、床に60代と思しき男性があぐらをかいて座っている。右手にはカップ酒を持っているが、口に運ぶのはまれだった。左手の大仰な動きは、そこにはいない誰かに向けて語りかけているようにも、また花見の宴会に列席している風にも見えた。

 どうしてこうするに至ったのかはわからないが、誰かに絡むわけでもない。特に混んでもいないし、何の迷惑という事もなかったから、出来得るべくんば目的地まで、この静かな酒盛りを続けさせてやりたい気持ちだった。

 時折、彼の左手はひらひらと盆踊りのように舞ったり、まあまあ遠慮なくと誰かに酒を勧めている風にもなった。顔は表情を見せないのに、手は楽しげに踊り、時にしみじみと歌い、懐かしげに語った。

 こうして3つ4つと駅を過ぎ、いつのまにか周りの音を聞かなくなっていた耳に、小さな子供のはしゃぐ声が飛び込んできて我に返った。視線は、通り過ぎていく風景や、過度に思想色の濃い出版物の広告へと戻っていった。




 乗換駅での停車時間は、あわただしい都内の電車の中ではずいぶん長く感じる。その典型例である新宿に着くと、駅員が突然「6号車・車内点検」とアナウンスした。

 駅員が目の前のドアから勢い良く飛び込んできて、素早く右に左に首を振る。つかつかと中ほどへと入っていき、未だ変わらぬ宴会を続けていた男性の片腕をつかんで引きずり起こした。

 抵抗しないのかできないのか、彼はそのままプラットホームに連れ出された。何事かをつぶやいたようだが、駅員は無視して「車内点検終了」と口早に告げ、今度はホームの上でせわしなく首を振って、車掌の方向を向いて持っていたマイクを小刻みに振った。ドアが閉まる。彼はよろよろと駅員に近づいたが、大きな柱の向こうへと押しやられて行く。

 その風景はすぐに車窓の隅から視界の外へ消えて行った。



9月5日:その1

 まだ幼い頃のこと。

 誰か故郷を思わざるという歌があると聞いて、母に、これは妙な言い回しだねと話したところ、まるで教科書を棒読みするような答が返ってきた。それはね、こういう意味よ。

 誰が故郷のことを思わないのだろうか、いや、思う

 最後のところが要らないだろうと食って掛かったが、そういうものなのだから、と押し切られた。単語の順を変えれば余計な二言は要らないぞと、さらに食い下がって良い答を提示したつもりだったが、聞き入れられなかった。




 17歳がキレる、と騒がれたのは何年前だったろう。

 少年犯罪が激増しているからと、加害者と同年代の、高校生の男女をスタジオに招いての討論会がTV番組内で開かれていた。残念ながら、誰かが何かを言うとそれには反対だと言って大同小異の主張が始まり、またそれに応じて、大して変わらない意見の者が、いやそれには反対だと言って挙手する、そんな繰り返しだったように記憶している。

 時折鋭い意見を述べる少年がいた。

 長髪にカチューシャ、垢抜けた服装。いかにも大人受けの良くない感じだが、そういうものだと押し付けられることや、利いた風な台詞で時間を浪費すること、大して違わないのに必至で主張することなどを嫌っているように見受けられた。

 途中から呆れたのか、少年は発言しなくなっていた。しかしいつまでも進展しない議論に我慢していることもできなかったらしく、意を決したようにゆっくり手を挙げ、低い声でぼそりと、何で人を殺しちゃいけないの、俺にはわからない、と言った。いつの間にか、カチューシャははずされていた。

 少年は座っていた最前列で少しだけ身を乗り出し、振り返った。列席の少年少女は大騒ぎになっていた。ざわざわと騒がしくなったかと思うと、たくさんの手が一斉に上がり、誰もが一生懸命になって、お前は何を考えているんだ、命を奪ってはいけないんだと口々に意見を述べた。

 いけない、じゃなくて、何故いけないかを訊いているんだ、と少年は再び問う。それから・・・それから?なぜか、このあと番組がどうなったのか覚えていない。




 番組のキャスターは、その後数年経ってもまだこの番組を続けていた。世の中皆が自分さえ良ければ構わないという風潮になっている、今こそ問うがあなたはあの少年の問いになんと答えますかと言って、キャスターは当時の録画映像を少しだけ紹介した。これも少年の問いかけに誰かが懸命に、いけませんと言っているところで切れてしまった。もしかしたら当時も、討論が続くまま番組だけ終わったのかもしれない。




 誰かに訊かれてみたい。なぜ殺しちゃいけないんだと。そうしたら、あえて結論から話そう。

 何言ってるの、人を殺してはいけないのではないですよ

 まずは2体の生き物を想定する。一方はあなただ。あなたはもう1体の生き物に殺されたいですか。おっと、殺されたい人の話は、後にしよう。
殺されたくない者の話から聞かせよう。

 殺されたくないもの同士がいる。手にはヤリを持っている。銃でも良い。殺さない?お互いが疑問を投げかける。そうだ。ここでも、殺すと答える人の話は後にしよう。殺さない者がどうするか、から話そう。

 殺さないもの同士がいる。お互い武器を捨てる。可能な形で意思の疎通を図る。例えば人同士なら、会話してみる。殺さないから、殺さないで

 武器を捨てたことを象徴する利き腕同士が握手をする。2体の生き物は、無為な殺し合いより、殺し合わない約束を選んだ。

 やがて約束の輪が広がる。

 人数が増えれば約束をして回る手間暇も大変なものになる。たとえば、この100人はお互い殺しあわないと一度に約束しよう、という集落が
出てくる。握手はされなくなり、握手したことにする規則が生まれる。

 殺してはいけないのではない。殺されない対価が殺さないことだ、と容認できる者同士の約束がなされただけではないのか。

 今となっては、生きたくないが自らによってでは死にきれない、どうか殺して欲しいと願う者がどこかにいても、おお、そんなやつがいるのか、是非殺させてくれ、などと願う者に会うのはまれだろう。

 それでも、会わないとは限らないのだけれど。




 回りくどいのはわかっているが、違う道筋で語る力もない。おそらく、いけなくない、と言った時点で会話はおしまいになるのだろう。

 誰がこんな話を聞くのだろうか、いや、聞かない

 うん、やっぱり最後のは余計だ、語順を変えたほうがいいよ、お母さん。



9月5日:その2

 便所でも寝床でも本ばかり読んでいたから、10歳にもなるとすっかり目が悪くなった。いやいや眼科に引きずられていくと、眼鏡は結膜炎を治してから作りましょうと言われ、しばらくは通院することになった。行くたびに眼球をぐりぐりと動かされ、妙な色の飲み薬を渡されて迷惑この上なかったが、幸い薬慣れしていたので、味がどうだろうと臭いがどうだろうと、飲むのに抵抗はなかった。

 だが、数えるほどの僅かな通院の後、全身に広がる赤い発疹と高熱であっけなく倒れてしまった。診察した内科医は、母には風疹だと言い、他の患者には麻疹だと言った。

カ ルシウムを注射されて温まっていく体を痒さが襲い、不快なことこの上ない。医師が、しいっと歯の間から息を漏らしながら、眉をしかめてカルテに向かう姿を横目で見ていた。




 ついには全身で赤くない場所を探す方が大変だというほどになって、最初に赤い発疹であったところがどんどん水疱化していった。それは鉄棒をやり過ぎた時にできる豆の、おそらく体積は十倍に届くかと言うような大きなものだった。

 中にたまった水は張りを増し、存在するだけで痛くてたまらない。もはや切除しかなかろうと言う医師の手にあるのは、メスでも麻酔注射でもなかった。

 見たこともない大きさの、ピンセットだった。

 この際何でもいいから取ってくれと腕を差し出すと、ピンセットが力強く水泡をつかみ、引き破った。水泡は淵を残して取り去られていき、赤々とした真皮が表れた。医師は左官屋に鞍替えしたかのようにぼってりと軟膏を塗り、分厚い包帯を巻く。まるでギブスで固定したような腕が出来上がった。




 皮膚病ならここで完治への道が始まったろうに、そうではないらしく、今度は四肢の中身が激痛に襲われた。筋肉も炎症を起こしているので通院は無理、と言うことになった。医師は根気強く毎日通ったが、実際にできることは、上下のまつ毛同士が癒着しないように引き剥がすことや、包帯を替えて軟膏を塗りなおすことだけ。

 一度皮膚科の医師を連れてきた。何事か意見しあっているようだが、耳の中も炎症で機能していないのか、声がしていた記憶がない。話によれば内科医は首を振ってついに疑問をあらわにしてお手上げだと告げ、皮膚科医は症状に対する処置は間違っていないと告げて2人は帰ったらしい。

高 熱はさらにひどくなり、意識は朦朧としてきた。立てないなどと言う話ではない。寝返りを打とうと力をほんの少し入れただけで叫びたいほどの痛みが走る。もはや自分で何もできない。かろうじて医療用器具から牛乳は飲めたが、水ですら舌が痛くて飲めない。ましてや水差しの先は尖っている。

 口腔内の粘膜も、瞼の内側も例外なく、粘膜という粘膜も炎症を起こしていた。








 やがて世界は地平線をはさんだ白と黒だけになり、さらに地平線の上下で別れている白黒の、どちらが上かも定かでなくなる。暗くも明るくもない、広くも狭くもない、上下左右もない。何もなくなってしまった。








 父は眼科医から内服薬の成分を聞き出し、どうやら最初の発熱への処置と、眼科から出された消炎剤とが合わさって、薬物アレルギーを起こしたらしいという結論に達していた。しかしこの時は症例がない。ずいぶん後になって、同じような症状になった患者の両親が長く裁判を闘った結果、薬のCMで注意を喚起するピンポンという音を出すことになったのは知られていない。








 無の中に黒と白の地平が帰ってきたが、どっちが上か下か、やはりわからない。やがてどちらも黒だと思った時、地平から日の出のような光が差してきた。始めはうっすらと、やがて光の筋が地平を満たすと、夏の不愉快な湿気を帯びた暑い空気が皮膚をなでていることがわかった。最初に見たものは、怪物の目玉に見えるとずっと思って怖がっていた、天井の節目だった。








 祖母が母に言うには、父も幼い頃高熱にうなされ危うかったことがあったという。ある夜、金色に輝く観音様が窓辺に立つ夢を見てから快方に向かったらしい。母は夢で金色のマリアが窓辺に立つのを見ていた。2人は同じだといって手を取って小躍りした。

 しかし全身の皮膚を失い、全ての筋肉と粘膜が炎症を起こしているということには何の変わりもなかった。なんと、確かに快方に向かってはいたが。結局皮膚が治っても、筋肉などの痛みで立ち上がれもしない状態は、まだ改善されなかった。

 かつて水泡だったところはかさぶたの様になり、痛みの薄れたところから順にひどく痒くなった。無理に剥いては絶対にいけないと言われていたが、言われなくても剥がれそうなところは痛いから、触りたくもなかった。

 相変わらず寝たきりだったが、この世でたった一つ食べられるものができた。

 ソフトクリーム。

 もちろんコーンが舌に触ると激痛が走るので、アイスのところしか口には入れられなかったが、始めは人の手から、やがてなんとか両手で支えて食べられるようにまでなった。

 祖母は足しげく、徒歩10分ほどにある巣鴨のとげぬき地蔵に通った。お地蔵さんも、縁日に生まれた子供を死なせたんじゃあ仏法が廃る、と思ったのか、見えない手を差し伸べてくれたらしい。参道である地蔵通りの草饅頭も食べられるようになった。




 かさぶたをいくつか残して完治したはずの皮膚は、豹柄になっていた。後にサンショウウオともキリンとも形容されたことがあるが、どれも当たっていた。普通より白い皮膚に、大きな褐色の斑点が無数に浮かんでいる。

 ここに来てもまだ、立ち上がることができなかった。

 特に炎症が長く残ったのはふくらはぎだった。何かにつかまって必死に立ったとしても、体重を支え切れず、あまりの激痛に泣き出していたほどだった。

 父は初めて立って歩く赤ん坊にするように、3歩離れて、ここまで来い、と言った。できない、無理だと泣き出しても、痛いができるはずだと根気強く諭され、3歩歩いては抱きついて泣いた。しかしすぐに離され、また3歩、また3歩と繰り返し繰り返し歩かされた。何度か歩いてみせると、今度は良く頑張ったと言って、そっと抱き寄せられた。毎日がそんなことの繰り返しになっていた。




 しばらくの間は、母が医院に行ってトニックや軟膏を出してもらうに留まり、医師が往診に来ることはなくなっていた。久しぶりの来訪時、階段を駆け下り、躍り出てわっと驚かせてやった。医師は同ぜず微笑んで頭を撫ぜ、帯同していた看護婦はまさかここまで回復するとは、と言って泣いた。

 足の裏の、分厚い最後の一皮がようやく剥けると、斑点こそ残ったが普通の暮らしに戻れた。ただし、直射日光に10分以上当たってはいけない、という条件はあった。ついに出来上がってきた眼鏡は黒ぶちで、妙に曲がったつるがついていた。これまた妙な具合の青い色がついていて、かける気になれる代物ではなかった。どういうわけか、倒れている間に結膜炎は治っていたようだ。

 今でもふくらはぎに違和感を覚えると、言い知れない不安に襲われる。幸い天井の節穴は、もう節穴以外のものには見えなくなっているけれど。



9月8日

 芸能人の隠れ家だとかテレビや雑誌が騒ぎ立てるから、静かな住宅街は盛り場の顔も見せるようになってしまった。金曜ともなれば大騒ぎになる。下手なカラオケが漏れ聴こえ、外では地べたに寝転ぶ輩もいた。そして、一番騒がしいのは帰るときだったりするから始末が悪い。

 気をつけてね、またね、お前はこっちだ、俺はこっちだ、とタクシーを止めたまま大声で挨拶している声だけを聞いていると、喧嘩しているようにも聞こえてくる。

 実際喧嘩もあった。

 待てと叫ぶ男の声のあと、急発進する車の音、それに続いてきゃあという女の悲鳴が響き渡ったこともあった。詳しい事情は聞いていない。

 携帯電話で大声で話す連中が路地にも入り込んでくることも多かった。違うよそうじゃなくて、と何度も繰り返す。先方もそう言っているらしく、だからあ、と何度も何度も同じ事を説明する。話が通じるのはいつの日か、と思った頃に決まって、やぁだぁもうぉ、という中年女性の声が聞こえたものだった。

 何時だと思ってるの、この路地は私道なのよ、通り抜けできないのに何故入ってくるのと一度にまくし立てる。これは面倒な所に迷い込んだものだと思うのか、同じ連中は2度と入ってこなかったから、効果はあったらしい。

 やがて路地の奥に住む老紳士が、工事中を示唆するような低い衝立のようなものや、これも工事中としか連想できない赤いコーンを持ち出して来て、夜になると路地の入り口をふさいでしまうようになった。






 路地の入り口の両角の片方には、木造の家が建っていた。塀も家も木造りで、住人は玄関を使わず、路地に面した裏の木戸から出入りする。朝出て夕刻帰ってくるものは中学生の娘だけで、他に誰が住んでいるやらよく知らなかった。しかし置いてある四輪駆動の車にサーフボードが積んであるから、大学生かそこらの息子もいるのだと勝手に推測していた。

 路地から見るとサザエさんが住んでいるとしか思えないこの家も、表通りから見ると無愛想にぽんと木のドアが一つあるだけの殺風景で、このドアも古びているから、遺産相続殺人事件が起こるに違いないと思わせるに足る面構えだった。ドアは通りから少しだけ引っ込んでいて、軒の陰になって昼も暗い印象を受けたものだった。通り沿いには歯科医院の大きな看板が立てられていた。

 両角のもう一方は、鉄骨鉄筋のワンルームマンションとは名ばかりのアパートが建っていた。若い独身者が入っていることが多いから、そう何年も住む者はいない。夢一杯で東京に出てきた若者は、初めての1人暮らしに浮かれて必ず友人を呼んで大騒ぎを始める。

 夜の10時を回ると、歯科医院の勝手口、つまり路地に面した木戸が開く音がした。例の中年女性は、大きく開いた2階の窓から騒ぐ声がするのだと見極めると、そこへ向かって、ちょっと、と呼びかける。その声は返事があるまで繰り返され、返事がなければ、回を追うごとに大きくなっていく。

 やがて、なんすかあ、と上から声がした。どうやら気が付いた若者が窓から顔を出しているらしい。年寄りも住んでいるのよ、静かにして頂戴とまくし立てる女性にしぶしぶ若者は、はあいと気のない返事をして窓を閉めた。程なくどかどかと階段を下りる音が路地にも聞こえ、友人を伴った若者は夜の街へと消えていった。

 女性は既に木戸の中にいたが、若者たちが通り過ぎるのを待ってがらがらと再び木戸を開けた。今度は、別の木戸やドアも開いて、中高年の女性や件の老紳士などが集まっているようだ。

 次は警察を呼ばないと駄目だ、一度思い知らないと効果がないと言う老紳士にみながそうだそうだと賛同し、しばらくざわざわと何事かが話し合われた後、本当に、などと言いながらそれぞれ家に戻って行った。






 ごめんなさい。

 重機のせいで路地に入れないでいたら、若い女性が声をかけてきた。近所では見かけない顔だった。

 取り壊すのにどれだけかけているのかと思ったら、建てる方は持ってきた箱を置いただけかと思うほどすんなり事が運んだ。歯科医院は3階建てになっていた。

 まだ人の住む気配はなかったのだが、この日はクレーンでアップライトピアノを二階に搬入しようというところだった。

こ っちから通れますからと、若い女性の先導で歯科医院の敷地を歩く。ほんとうにごめんなさいという彼女に、いいんですよ、実家のグランドピアノを運ぶ時には、などと話をあわせているうちにこちらの玄関につく。どちらからともなくどうも、と頭を下げた。

 四輪駆動の上に姉がいて、婿を取って戻ったのだとか頭の中ではドラマが出来上がっていたが、「やだもう」と関わるのは面倒が多そうだから、知らずにいた方が良かろうと、郵便受けに山のようにたまったチラシを抱えて部屋に戻った。

 ここは角のアパートの1階で、建物の入り口もうちの窓も路地を、かつての勝手口を向いていた。






うるさいっ!


 雑巾を絞りすぎて千切れそうな怒鳴り声がした。そんな慣用句はないが、絹を裂くような悲鳴の正反対が浮かばない。


はやくしなさいっ!


 勘弁してくれ、徹夜明けなんだと眠い目をこすりながら体を起こすと、声は外からしている。


だあってぇ・・・
だってじゃないっ!


 どうやら小さな女の子がいるらしい。声は歯科医院の2階に作られた、取ってつけたような小さなテラスの、その奥の開け放たれた窓から漏れていた。もう人が住んでいるのだ。それも、いままで聞かなかった声だから、やはりここには多世帯住宅が建って、自立していた子供世代がその子供を連れて越した来たと考えるのが妥当だろう。アパート住まいには回覧板も回ってこないし、引越しの挨拶などもないから、知らないのはここの住人だけか。とっ、とっ、と軽そうな足音がして、どうやら少女は怒鳴り声の主の前に立ったらしい。


グズ!


 怒鳴り声は、何かを中断して駆けて来たらしい少女に追い討ちをかけた。仕事の締切が片付いたら眠りたかったのに、その気は失せた。






おねえちゃまあ


 今日は久しぶりに昼まで寝られるというのに騒がしい。


お、ね、え、ちゃ、まあああ


 ああ、うるさい。元気がいいのは結構だが、近くに公園だっていくつもあるのに何もここで騒がなくてもいいじゃないかと思っているうちに起きてしまった。


まゆっ!うるさいっ!


 この声は先日グズとののしられていた少女のものだった。


だっておねえちゃまが#$%&’’J・・・


 少女の妹らしい声はそこで途切れた。来る。息を吸っているところだな。そら、


うわあああああああああん


 ああ、やっぱり。兄弟げんか等したことがないけれど、その呼吸のようなものは知っているつもりだった。そしてもちろん、このあとどうなるかも予想がついた。


なにしてるのっ!!


 これは姉妹の母親の声なのだろう。姉妹の父らしき人物は、ゴミを出す時に何度か見かけた。温厚でおとなしい。その風体から、どうしてもこちらが婿で、帰ってきたのは娘だ、だから大声を無遠慮に出すのだと確信した。






 仕事の打ち合わせがある。時間が迫っているから、もうバスや電車では間に合いそうもないから、通りから更に大きな通りに出て、そこでタクシーに乗ろうといそいで飛び出した。


なんどいったらわかるのっ!!


 頭上から雷が落ちた。だいぶ慣れたが、激しさは増すばかりだ。最初は育児ノイローゼから我が子を殴って死なせるのではとまで心配したが、それは杞憂に終わると思う。


まゆが$%&’したからで、あたしじゃないっていってるでしょ!!


 負けじと上の子が返している。下の子も私じゃないと怒鳴りかえして、3つ巴でやり合っているようだ。

 外では、すっかり白髪が増えて老女の体になったかつての「やだもう」が、せっせと側溝のあたりを掃いて、手際よくちりとりに集めていた。おはようございます、と声をかけると、老女は腰を曲げたまま、ゆっくり顔だけこちらに向け、にっこりと微笑んで会釈をし、またほうきの先に目を移した。

 あと15分しかない。今日は給料日後の金曜日だから、246混んでいるだろうか。とにかく、大通りまでは全速力で走らなければならない。都合よく空車のタクシーが来るかどうかはそれからだ。間に合わないと・・・それは考えまい。

 路地から出た所で胸を張って大きく息を吸い、勢い良く駆け出した。



9月9日

 三軒茶屋と下北沢を結ぶから茶沢通りと呼ぶのはわからなくはないが、どうして頭文字同士を組み合わせないのかと思う向きも多かろう。まあ、三下通り、では江戸の粋に反するのは頷ける。

 三軒茶屋の駅から続く茶沢通りの商店街も、歩き進むうち別の名前になり、やや閑散としてくる。人が三軒茶屋と呼ぶ街はこの辺りで終わりかと思う辺りに、三叉路と呼ぶには情けない、路地が通りに合流する三角州状の土地があった。

 おでんのこんにゃくのような形のこの場所に、猫の美容室があった。

 猫の、と書いてあるのに犬の餌や首輪が並び、階上からは小型犬のけたたましい泣き声が外にも少し漏れ聞こえてくる。通り沿いはガラス張りで、いつも2匹ほど子犬がいた。ガラスの壁面には犬種と値段が書かれている。






 祖父母と、父の弟一家と、我が家との、いわば三世帯住宅で育った。実際には大きな家をすっぱりと2つに切り、壁があって行き来できなかったから、我が家と、祖父母・叔父一家とは別世帯のようになっていた。ただ、もとはひとつだった名残で、こちらの玄関と向こうの勝手口は同じ木戸から入るようになっていた。

 叔父の娘、つまり従姉はひとつ年上で、おもちゃもまんがも自転車も、ねだれば何でも手に入っていたようだった。その流れでなのか、ある日木戸の中に突然すまなそうな顔をしたダックスフントがいるようになった。名はボスだという。

 従姉がねだって飼ったのだろうに、ちゃんと散歩に行かないからその場で用を足してしまう。始末に困ると飼い主ではないこちらの玄関に向けて鼻を鳴らす。子供の頃はあまり下の世話など進んでしたいことではなかったけれど、やけに耳ざとかったから、ぴすぴすという音にすぐ気づいては飛んできて、ひょいとちりとりですくって始末してきてやる。

 祖父と叔父は酒屋を営んでいた。戦災がなければ、上野と御徒町の間くらいに、名のある百貨店と同じ通りに堂々と店を構えていたらしいが、そう言われてなるほどなと言えるほどではなくなっていた。

 木戸の内側にボスを残して、店にまわる。配達に行っていなければ、たいてい叔父がいた。ボスと散歩に行って来たいと言うといつも、、おお、良いよとだけ答えが帰ってきた。

 木戸に戻るとボスは座って待っている。リードを用意するのを首だけ動かして目で追い、それがつけられてもなお、自転車を表に出して跨ぐまではおとなしくしていた。それが嬉しいのも手伝って、ついゴーと大声で合図する。いきなり全速力で駆け出すボスと共に、入り組んだ路地や、長々と続く商店街の中をしばらく駆け回った。

ボ スがスピードを緩め、こちらを振り返るようになったら帰宅の合図だった。ほとんどこぐことなくゆっくり進む自転車の横で、ボスはてくてくとせわしなく足を運んで歩いていた。胴長の姿をさらに長く映す影が、街灯に近づくと縮み、離れるとまたこれでもかと伸びた。






 母の実家で長期間過ごすのが我が家の夏休みの通例だった。しばらくぶりに帰ってきて木戸を開けると、ボスの姿がなかったが、疲れているからとにかく家に入って空気を入れ替え、とりあえず休息をとり、やがて眠ってしまった。

 気になることは聞きただす。この時それができなかったばかりに、何日もボスのいない暮らしを、気にしたまま続けていたある日、郵便受けに叔父宛のハガキが入っていた。店に回って届けに行く間に盗み見ると、

*月*日 ボス号 埋葬いたしました 

と印刷されていた。






 大きな2つの耳がこちらに向く。満面の笑みでガラスの壁など構わずじゃれつこうとする子犬は、まだTVでしか馴染みがなく、実際には公園で一度出会っただけの、目新しい種類だった。

 ガラスの外で手を動かすと、それに合わせて右に左に飛びつこうと動き回り、手を引っ込めると座ってこちらを見る。こちらも上から下までじっくり眺める。愛らしい顔の下には、短い足がちょこんと生えていた。






 茶沢通りから少し引っ込んだところには、当時KENが住んでいた。そこに集まった帰り道、コリーのジョーイを亡くした後、何事にもやる気を無くしてしまったAYUMと、耳の大きな短足犬を見ていた。愛らしい子犬は構ってくれそうな人間を見つけて、口いっぱいに頬張ったおもちゃをぽろりと不器用に落としてこちらに駆け寄る。見えないところから飛び出すと驚いてぱっと飛び退くが、ひと呼吸置いてすぐにまた寄って来た。

 AYUMは大きい犬を好むので、このウェルシュコーギーという種類の子犬が気に入るかは少々不安ではあったものの、これだけ良く遊ぶ犬が嫌いな犬好きなどおらず、どうやら彼女はまんざらでもない様子だった。

 血統書もついていると明記されているから、25万円は妥当な値段だったろう。しかしこの値札のような張り紙はしばしば替わり、22万5千円が17万5千円になり、15万円から12万5千円へと移り変わった。

 子犬の方も、ガラスの向こうには手が出せず、においも嗅げないと悟ってしまい、ふてくされてうずくまっていることの方が多くなってしまった。10万円が7万5千円になり、ついに店頭から子犬が姿を消してしまった。

 虚しく張り紙だけは残っていた。もう別の子犬が居座り、たまにガラスケースの脇に置いてあるケージに押し込められたあの子犬は、もう横目でちらりとこちらを見るだけで顔すら向けず、諦めたように目をつぶる。

 次に通りかかった時には、5万円、とチラシの裏に殴り書きしたようなものがガムテープでガラスに貼り付けてあった。

 きっと、次の値下げは、ない。これが最後だ。






 腹を決めた女には誰もかなわないというのは、経験からひねり出した自作の格言だが、それを今回も体感することになった。

 AYUMは彼女の母を、子犬を飼ってくれと説得し、さらに妹と共に車で件の店まで来るように、と既に手配していた。しかし、来て貰うまでに中一日開いてしまうことになった。せっかくここまで話がついたのに、もしその間に何かあっては台無しなので、全額手付けにすれば先方も文句は言うまいと、こちらで金を払っておくことに決めた。

 ところがこの日は、姿かたちはおろか、殴り書きの張り紙すら見えない。急いで狭い店内に入っていくと、エプロンをした店員らしい若い女性が2人いた。コーギー5万円の張り紙を見たので来たが、もういないのかと尋ねると、1人がいますいますと血相を変えて2階へ駆け上っていった。

 抱きかかえられてきた子犬は、すっかり大人の大きさになっていた。血統書がついていたはずなのに、どこか形はそれらしくなく、毛もだいぶ長かった。事情説明のために帯同したAYUMには、それが良かったらしい。背中の毛の少しよれた様になった辺りにかじりついて、ジョーイみたいだとつぶやいている。

 その時財布に入っていた1万円札が全部で5枚だったのは少々情けなかったが、明後日取りに来るのでもう少し面倒を見ていてくれと頼んで支払った。AYUMはお構いなしに、何かできるかな?と犬に尋ねていた。さっき血相を変えていた店員が急いで寄って行き、一通りできますと言って、お手もお座りもちゃんとできることを見せた。ここで飼わないと言われたら大変だと思ったらしい。

 ではまた宜しくと言って立ち去る時には、件の店員は子犬に抱きついて、ほんとうに良かったねと繰り返し言って泣いていた。






 なんていう名前にしようか。AYUMが彼女の母と妹に尋ねた。大きな子犬は店員にリードを着けてもらい、すっかり散歩気分になっているようだった。

ジョーイだよ。

 声の揃った返事が聞かれた。AYUMは不服そうに、ジョーイはあれだけでこれは違うとぼやいたが、うちで飼うならジョーイ、と2人に押し切られた形になった。

 今日からジョーイになった子犬は、店から出たとたんに、店員がついてこないと知ってしゃがみこんだ。泣き声ひとつたてず、鼻も鳴らさぬまま、無言の抗議だった。べそをかきながら、店員が、ほら、お行きと声をかけるが応えない。しかたがないから抱きかかえて持ち上げると、首をだらしなく下げてされるがままになり、力を抜いた。

 店の玄関でじっとたたずむ店員は、よかったらまたこの辺に連れてきてくださいと震える声で言い、無理に笑った。ええと答えたが、心中では、ずいぶん遠くへ行くからおそらく2度とこの辺りにジョーイが来ることはなかろうと思っていた。

 丁寧に敷かれた毛布とバスタオルの上で、ジョーイは伏せてじっとしている。やがてドアが閉められ、人が乗り込んで車が出て行く。まだ通りの反対側で手を振っていた店員は、やがて目と鼻を小さなタオルで拭った後、顔を上げてこちらに大きく頭を下げた。会釈を返したあとは振り返らず、そのまま通りのこちら側を足早に立ち去った。






 がああ、ぶひい、ぜええ、と時折妙な息づかいをする。相変わらず挨拶ベタだから他の犬には吼えられるばかり。散歩の途中で後ろ足がわなわなする。戻ってから腰や足を揉んでやると目を細める。手を休めると前足をひょいと預けて構ってくれと催促する。顔の愛らしさは変わらず、10歳の老犬とは思えない。

 たまにしか会えないジョーイがいま住んでいるところは、ボスと一緒に駆けずり回ったなつかしい故郷の、隣町だ。同じ臭いがする。入り組んだ路地と、商店街と、都電と、古びた店と。




 そして、愛らしい、足の短い犬。



9月11日

 急な坂は左に向けてぐいっと曲がっていて、それを上りきって少し行くと、その昔通っていた中学校が右手に見えてくる。ちょうど曲がる角の当たりに大きな実をつけるざくろの木があって、そのおかげでぱっくり割れる例えに使われるのを中学生にしてやっと理解したのだった。

 曲がったら背を向けてしまうから、角の右手がどうなっているかなど、朝のうちは気にも留めない。道よりも土地が高くなっていたから、やたら塀の高いのが息苦しくて、わざわざ見上げたりはしない。

 夕刻になって同じ道を帰る。今度は坂の上から水平に見えるから、往路の右手だったところが眼前に現れる。そこは墓地だった。高い塀だと思っていたのは決して間違いではなかったけれど、高くなっている土地に無理矢理坂道を作って、あとでそのために切り削った部分を固めてあり、さらにその外側に塀を作るという面倒な作りになっていた。

 友人と話しながら、足元を見つめて考え事をしながら、やはり帰路においても墓地の辺りはわざわざ見るところではなかった。






 ぼくがいるじゃないか、と6歳の時に母に言ったから、母は立ち直れたのだと後に本人の口から聞いたが、そんな記憶はない。

母 の腹が大きくなり、実感の無いまま兄弟ができるんだと聞かされた。母の替わりにそのまた母である祖母がやってきて幼稚園の送り迎えをしてくれたが、何をどう思っていたのか決して手を繋ぎたがらなかったという。

 退院してきた母は生気がなかった。寝巻きにガウンを羽織った姿をぼんやりと覚えているが、思い出す様子ではいつも突っ伏していたから、顔色がどうとか言おうと思っても浮かばない。

で きるはずだった兄弟の姿はなかった。両親共に厄年だから、あの子が持って行ってくれたんだ、と言う親類の話はずいぶん後になって聞いた。

 母からは、病気だったとだけ聞き、正面切って死んだと言ってくれたのは父だけだったように覚えているが、定かではない。

 毎日どんよりとした気分で過ごしている母に、6歳の息子が言ったらしい。

 まだ、ぼくがいるじゃないか。

 励ましてたと思って立ち直ってくれたのならそれで良いが、一言一句を
噛み締めると、自らへの疑念が湧いて来る。

 まだ、ぼくがいるじゃないか。それなのに、死んだ子のことばかり考えてひどいじゃないか。

 おい、そう思ってたんじゃないのかと、答えのない問いを繰り返す。






 見たときにな、わかったんだよ。

 父はこちらの目を見ずにそう言った。20歳になって一緒に飲める様になった頃だったろうか。どうしてあのとき2人だけの状況になったのか思い出せない。わざわざそういう状況が作られたのか、たまたまそうなったのか。

 弟ができるはずだったという。いや、できていたのだった。医者に呼ばれて、生まれたばかりの赤ん坊を見せられた父は、無念にももうだめだと結論していた。やせほそり、あまりに小さく、医療機器がなければ呼吸もできないし、心臓にも今後一生補助が要るという。

 これ以上の見た目の形容は語られなかったから、もしかしたらもっとひどい何かがあったかもしれない。

 手術が必要だと医者は言った。そうすれば生き延びるかと問うと、今後も何年かに一度は手術の必要があり、そのため胴体の前面には長く大きな傷を持ち続けることになると答が帰ってきた。

 物言わぬ新生児にかわって、父が決断しなければならなかった。

 生医療機器と共に行き、その人生の殆どは病院を過ごし、いつどこが
悪化して死ぬかもわからない人生。その体には、決して消えることのない大きな傷跡がついて回り、しょっちゅうそれにそってメスを入れられる。

 そうしなければ、いま弱って、一滴の乳も飲めずに目を開けることもないまま死んでいく。






 わずか数週間だったから、出生届を出すかで、また親戚が口を出した。戸籍が汚れるからよしなさい。父は少しでも生きた証だと言って次男の名を謄本に記す事を選んだ。顔も見ないまま、弟をなくしたというぼんやりとした事実が残る。その後しばらく弟の年を数えていた母は、誰それが死んだ子は年を取らないと言っていたから、と誰にともなく言ってから、それをやめた。






 父方の祖母が息を引き取ったのは、いよいよ真冬と言う時だった。郊外へ引っ込んだ両親の所にいたから、そこの斎場で葬儀を行った。既に亡き祖父の墓は、故郷の町にある。

 やがて同じ墓に祖母の遺骨を納める日がやってきた。親戚たちが次々に線香を上げては去り、やっと順番が回って墓の前にかがもうとするとき、父が、弟がここに入っているからと言った。声を出さずじっと顔を見合った後、改めて墓の正面にしゃがみなおして無心に拝み、やがて目をあけて立ち上がり、振り返った。

 緑に塗られた金属のフェンス越しに、左から上ってきて正面へと上る坂がある。少し右に目をやると、まもなく青々と若葉をつけるであろうざくろの木が立つ。この坂を正面に向かって上りきると・・・

 ああ、この先だったよね。

 声がした。うむ、と頷いて声の方を見る。もう同じ背丈になった、記録上の三男が立っている。あの数年後に生まれた赤ん坊、産み落としてすぐ母が指を数えようとして看護婦に笑われた赤ん坊、1人死に、1人死に掛けた我が家にあっという間に光を取り戻した赤ん坊は、既にもう成人していた。






 弟が二人いる。だが、いまだ実感はない。



9月15日

 ふいに音が変わり、列車は地下鉄から高架線へと駆け上がる。眼前に多摩川が現れ、上半身裸の青年がぼんやりと日光浴をしていたり、止めてある自転車を何の目的か入念にチェックする制服警官が歩いていたりするのが見えた。

 さっきまで目の前が壁だったのに急に視界が開け、9月も半ばにさしかかろうというのに、厳しいとさえ思える日差しが車内に差し込んだ。

 最も水位が上がった状態を想像すると、今列車の停まっているホームは川の上に突き出していることになる。不思議な気分になった。

 斜めに腰掛けなおして窓に顔を寄せ、前方を見ようとしてみる。向こう岸はもう神奈川なのだが、では、あちらの方が閑散としているかというとそうではなく、むしろ地価や家賃が安価なせいか、東京側よりずっと民家が多く、隙間なくみっしりと並んでいた。

乗 っていたのは急行電車で、このずっと先まで行かなければならない。これは随分面倒なことを引き受けたもんだと、大きくひとつため息をついた。






 カラオケや着メロを作る、というと一般的には音楽の仕事をしていると思われてしまうが、この世界、自分の著作物や自分の演奏がメディアに露出しないと、一人前の業界人とは認定されない。もちろん、それは構わない。喘息持ちであることもあって、ストレスに晒されながら毎日通勤する、などということができる健常人ではないから、自宅で聴いたり打ったりすれば済むこの仕事が、とても気に入っている。

新 しい企画は、いつも発注元である会社からもたらされる。この発注元には、若くして責任者になった、音楽に造詣の深い男性社員がいる。この人が元請け会社を訪れて、新しい仕事の概要を説明するというので、代表で
説明を聞く役目になった。

 後日、自分と同じ立場のカラオケアレンジャーたちを別の日にこの元請け会社に集めて、今度は自分が説明することになるという段取りは、もう何年も続いてきた。元請けの社長から、今回は負担を減らすため他の連中にも、来られる者は説明を一緒に聞くよう指示したよ、と言われたから、しぶしぶ引き受けて事務所に来てみると、5人のうち2人しか来ないらしいことがわかった。。

こ の2人というのは、1人が人の話を聞かず、結局何度も確認の連絡を取って理解を得なければならない人、もう1人が、ウィンドウズでしか出来ない仕事なのにマックしか持っておらず、PCを買うから是非やらせてくれとねじ込んできた人だ。どちらも、今日来たことがまったく意味のないことだったと、後日思い知らせてくれることは間違いないタイプと言える。

 音楽業界においては、マックこそが標準で、ウィンドウズは頼りないものとして扱われてきた。だから、ウィンドウズを持っていない人など、珍しくない。ただ今回は、買ってでもPCで仕事をすると言う人が初めて現れたから、この人にウィンドウズのいろは、使用するソフトのABCを伝授しなくてはならなくなった。

最 近、初めてパソコンに触る人に色々教える機会があるので、おそらくこんな感じになるだろう、という、指導風景のシミュレイションはできていた。いくつか安価なPCを勧め、このソフトを導入してくださいと勧め、わからない点は電話でもメールでもどうぞ、と言っておけば安泰のはずだった。

ダンタ、インストードゥデティテナイビタイダンデトュテド
(なんか、インストールできてないみたいなんですけど)

 たどたどしく話す留守電のメッセージを理解するのに苦心したが、とりあえず先方に連絡を入れて、既に伝えてある手順を確認しながら全て辿り、それに間違いがないことは判った。しかし、仕事に必要なファイル形式でセーブができないという。このまま電話で聞き取りにくい会話を続けていても仕方が無いと思い、後日伺ってインストールしてみましょうと言って日取りを約束した。

 樽のような腹を抱え、老けて見えるが6つ7つ年下のこの人は、そういえば事務所で会った際も、こんな話し方だったかもしれないのだが、よく覚えていなかった。






 田園風景が車窓を過ぎて行ったかと思うと、斜面に作られた巨大な公園と、後に控える巨大団地があったりする。急行はあまり停車しないことも手伝ってか、郊外の風景はめまぐるしく変化した。遠くの何もなさそうなところに、急にぽつんと大型小売店の看板が見える。街道があるのだろう。一体どのくらいの範囲から客が集まってくるのか想像がつかない。狭苦しい路地で育ち、今も結局似たような土地に住んでいるから、高架線の上から広々した景色を眺めているだけでも不安な気持ちになる。せめて田園なら田園、と一定していれば観光気分にもなれたのに。

 終着駅に着く寸前、崖の中に飛び込むように、再び列車は地下へと潜った。程なくプラットホームが見える。備え付けの大きな時計が、約束の時間を2分回っていることを示していた。階段は両側から集まるように昇る1箇所しかないから、改札口もおそらくひとつ、迷うことも無かろうと駆け上がった。

ドーイドトロボアディバドゥーボダイバトゥ
(遠い所をありがとうございます)

 既に立っていた彼に声をかけられたので駆け寄って、もういらしてたんですか、お待たせしてすみませんと当たり障りの無い決まり文句を並べ、促されて先方の車の助手席に乗り込んだ。

 本当は、ここからさらに乗り換えて2つ先まで行った所が最寄り駅であること、まだ実家住まいで、車は親と折半で買ったこと、その条件として朝夕には送り迎えをすることなど、道中いろいろと不満だらけの現状を聞かされた。

 生返事を繰り返しながら、目は景色を追った。驚くほど家が多い。この辺りには巨大団地は見当たらず、どれもこれも一戸建てだった。いくつかの街道に乗っては脇道に逸れ、また別の街道にしばらく乗っては狭い道に右折し、ついには車が入れるのか首を傾げたくなる道に勢いよく滑り込んで、ようやく目的地に着いた。

チョットオディテバッテテトゥダタイ
(ちょっと降りて待っててください)

 彼は狭い道に面した自宅の駐車スペースに、うまいことぴったりと車を納めると、汚い所ですがと頭をかきながら言った。不意に何かに気づき、こちらの後に停まった自転車に向けてなにか短く尋ねるような言葉をかけた。振り向くと、自転車に乗ってきた女性がそれに何か答えるところだった。これまでのまどろっこしい話し方が嘘の様な速さで言葉を交わしたのだが、何と言ったのかはどちらもわからなかった。

 ハハデトゥ、と紹介されたので、これこれこういう者です、本日はお邪魔してお騒がせいたしますと丁寧に挨拶した。大住宅街を見ながらやって来なかったら、どうみても農作業の帰りにしか見えない様ないでたちのお母さんは、今スポーツしてきたところで汗だくだ、息子のメールなど読んでいないが、誰か来るのは聞いていたなどと、普通の速さで話した。そのメールを読んだか否かを、さっき物凄い速さで会話していたらしい。おそらく読んだ、読んでない、だけで通じたと思われる。

 息子の方に促されていよいよ戸口から足を踏み入れるという時、お母さんは、ウチん中はきったねぇかもしれねぇよお、と自転車のスタンドを足で乱暴に出しながらこちらに声をかけ、照れくさそうに笑っていた。

 2階に連れて行かれた。そこが彼の部屋で、2段ベッドの上だけのような寝床の下が作業場風になっている。オーディオセットやCD棚、鍵盤楽器などが所狭しと並べられている。尋ねるのを忘れたが、なぜか空調は2台あった。

 PCを起動してもらい、妙な具合に並べられたデスクトップのアイコンをクリックしてみる。早速エラー表示が出る。どうもおかしい。別の、やはり作業に使うソフトのアイコンをクリックする。またエラーが出る。こちらはメーカーのサイトからダウンロードできるから、インストールし直してみる事にした。

 やや不親切なソフトなので、<すべてのプログラム>というメニューには登録されないことは判っていたから、ProgramFilesフォルダから辿って、目指すソフトの起動ファイルを見つけた。ショートカットをデスクトップに送る作業をしている横から、ああ、ショートカットを作らないといけないんですかと言われ、何か嫌な予感がした。作っていないということか。では、ここに並んだアイコンは一体なんだというのか。

 さっきクリックしてもうまく行かなかったアイコンを良く見ると、.EXEがついている。まさかと思って他のも確かめてみると、みなソフトの起動ファイルばかりだった。それだけではない。彼は、それらのファイルを、先ほどのようにわざわざ探し出して持ち出して来たのではなく、ダウンロードしたファイルをそのままフォルダから出してインストールされたファイルと関係なく持ってきていたりするから、これではひとつのソフトも起動するはずが無かった。

 聞けば、マックではこうすれば動くのだという。だからウィンドウズでも動作すると思ってしまう決め付けにも困るし、同じですかと尋ねてこなかったことには腹が立つ。先ほどダウンロードしたソフトについては、どうやって起動すべきかまで、文書で丁寧に指導済みなので、その後質問が来ないからわかったものと思っていたから、本来ならふざけるなと怒鳴りつけて帰ってしまうべきだったかもしれない。

 ここでまた、元請けの社長の顔が浮かんで、面倒は起こすまいと思いなおした。すべてのインチキアイコンを所定の場所に移し、スタートメニューから必要なショートカットをデスクトップに持ってきた。昼日中にやってきて、30分でさっさと片付けるはずだった作業、そこにまだ、たどり着きもしていないまま、もう日が傾いてきていた。

 やっとのことで、とりあえず最低限の正しい状態になる。疲れ果てた。ここで、いよいようまく動作しなかったソフトをインストールする段になった。






 列車の音が鉄橋に差し掛かったことを知らせ、これで多摩川を越えて戻れるのだと、さっきまでの鬱々とした気分が晴れてきた。始発から乗る際、この電車が神奈川を出て都内で方向を変え、埼玉を通り越して栃木辺りに行くらしいと判っていたから、なんだか気が遠くなって、早く帰り着きたくて仕方なかった。暗くなった車外は、地下鉄になっても眺めに大差がない。ようやく降り立って地上へ駆け上がり、できる限りの大股で家路を急ぐ。もうこんなのは御免だ。

 「今後、マックからウィンドウズへ移行する方や、ソフトの不正コピーを前提に作業することをご希望の方の指導などは、他の方にお願い申し上げます」

 元請けの社長にメールを出すと、驚いて電話してきた。何かあったのか、人間的にこいつは嫌だというのがいるなら取り成すと言ってくれたが、そういう話ではない。あそこまでしないと仕事も始められないなら、マックにも詳しい人間が対処しないと、こちらでは予想し得ない事態になると説明した。

 ましてや、まだ、例のソフトは動作していない。遠くまで押しかけてこの手で作業しても事態を好転させることはかなわなかった。

 これでは頼まれた役目をこなしたとはいえないから、誰それの方が適任ですと繰り返した。事細かに状況を説明した。黙っているつもりだったが、こちらのソフトをコピーしたいと先方が言うのに腹を立てて、新たに自費で購入して送りつけ、自力でインストールするようにさせたこと、これでダメなら面倒を見る気がないこともついつい話してしまった。話しながら、気を遣っていたつもりがかえって暴走して面倒をかけている気になり、何かにつけて繰り返し謝った。

 そのソフトの分は請求して欲しい、ここまで困難な作業になるとこちらも予想していなかったと社長は言い、今後PCも1から、という者は登用しないから、今はこの役目を続けてくれないかと言われ、判りましたと答えた。






ファイドゥガテーブデティバティタ
(ファイルがセーブできました)

 メールだからそんな風に書いてあるはずはないが、もう頭で勝手に声を想像してしまう。どうやら肩の荷を降ろしても良さそうだ。しかしまだ、できあがったファイルが発注元に納品できるレベルか、ルールが遵守されているか、チェックすることになる。それはまた、少し先の話だ。

まだ疑問がひとつ解けない。あの話し方で、熱っぽく自分を使えと捻じ込むような真似が、本当にできたんだろうか。

場面を想像はしても、肝心の台詞はひとつも浮かばなかった。



9月19日

 石神井川は実に汚い。ゴミや洗剤の泡らしきものがゆらゆらと流れていく水面の、その下には濃い緑の藻の固まりが見える。江戸の昔は流れも美しく、王子では紙すきが行われていた。現在の王子製紙がどこに水源を得ているのかは知らないが、川を見る限り、取水の可能性はなく、排水の可能性ばかりに思い当たる。

 秋とは名ばかりの暑い日だったが、日が傾くとそれなりに過ごしやすくなり、少し風も出ていた。夕方に顔の高さに現れる鬱陶しい虫の群れには会わず、ただ1匹で寂しげに飛ぶ赤とんぼを見かける。なるほど暦は秋であるらしい。

 川は地面よりだいぶ低い所を流れていた。幾つもの橋の上を、ここが川であることを気にも留めない車や人がせわしなく通り過ぎる。近くには源氏ゆかりの寺院が立ち、こうこうだからこの辺りは紅葉という地名なのです、と書かれた石碑がある。

 川を渡る通りから、川に沿って曲がる狭い道がある。緑地公園と申し訳なさそうに小さな看板があり、道なりに進むと、砂利を敷いた広場になる。これも広場というには小さいのだが、狭い道の片側に植物が密生していたので、その中を通ってきた後だとそれなりに広く感じる。

 人を引っ張って勝手気ままに散歩するらしいジョーイだが、それを許さずぐいっと引っ張り返して、しかも顔も見ずに勝手に進む金髪の大きな人間と歩いたので、それなりに従順になり、また割とおとなしくここまでやってきた。

 広場の先にもまだ川沿いの道がある。広場に座らされ、一休みしているジョーイの耳が立つ。向こうの道から犬がやってくる臭いがしたのだろう。腰辺りが落ち着かず、立ち上がりたい様子を見せていた。

 若くて、しかも普通の犬なら、ここで犬と飼い主とが共に挨拶に向かう所だが、生憎ジョーイは己の老いたことを決して認めず、大きさが同じくらいと見れば、気持ちは「挑」の一字になってしまうから、こちらはあまりその犬に興味を示さぬよう配慮し、なおかつ興奮させないように気をつける必要がある。

 しゃがんで後から静かに胸周りを抱えるようにし、さらにもう片方の手でその少し下あたりをゆっくりと撫でてやる。立ち上がろうとする動きを見せたら、さっと一瞬だけ引き寄せる。

 見えない道の向こうからちょろちょろと現れたマルチーズは、飼い主と共に静かに目の前を通り過ぎていく。ジョーイはそれを静かに、しかし興味深く見守る。やがて対象が広場を過ぎて反対側の道へと消えると、安心したように伏せた。

 帰ろうか、と声をかけると、ジョーイは勇んで立ち上がり、来たのと反対の方へ歩き出した。また違うのが現れるかもしれないと期待があったのかもしれない。しばらく行ってから、くるりと向きを変えてみる。もちろんここでも顔は見ない。あわてて方向転換するのを抑え、わざわざこちらの周りを回らせてから、こちらのペースで歩き出すと、おとなしく従った。

 帰りはなるべく歩道の真ん中を歩いてみる。嗅ぎたい場所が決まっているからか、2度ほど行きたがったが、その後は引っ張ることもなく、息を切らせることもなく静かに歩いていく。前回は何度も小休止を取らないとゲホゲホとむせていたのに、今度は一度の休みもなく進む。

途 中、風下に犬がいても興味を示さなかったのは、もしかしたら目が弱ったのかと気にはなるが、興味を示すな、という態度が伝わったものと、良いふうに解釈した。

ジ ョーイは家に着くと、ちょっと下がった。帰りたくないのではない。こちらを立てて、順番を待とうとしているのだ。どうしたの、入らないの、と飼い主さんにせっつかれ、きょとんとした顔で家に上がるジョーイは、すまなそうにこちらを見上げた。



9月21日

 ぴょっぴょっぴょっぴょっ

 なにやら怪しげな音がする。鳥にしては機械的過ぎる。電子音だとしたら、車上荒らしを嫌った警備装置の類だろうか。

 ぴょっぴょっぴょっぴょっ、起っきろぉー

 どうやら一風変わった目覚まし時計であるらしい。しかし、午前0時である。まず、普通のサラリーマンや学生ではない。近くに大学病院だの、自衛隊中央病院だのがあるから、同じ建物には看護士も多いと聞いている。だから、おそらく夜勤のために仮眠を取ってから夜中におきだしていくのかとも思った。しかし、0時に起きてから身支度をしていたのでは遅すぎる。

 ぴょっぴょっぴょっぴょっ、起っきろぉー

 絶対におかしい。今度は昼の12時だから、夜勤などではない。おそらく階上の住人が、目覚ましをセットしたまま帰省したのだろうと核心には至ったものの、それでは今後しばらく、半日ごとにあれを聞かされるのかと少々うんざりした。恨めしや、とばかりに天井を見上げて、ふと、かすかに残るしみに目がとまった。






 急に豪雨が降り出して、止む事はなさそうだと濡れて帰ってきた夜。眠っている顔に不意に落ちた水滴で目を覚ました。鉄筋の建物の1階だから、上から水、という想定は全くなく、慌てて飛び起きる。窓のあるほうからじわじわと水のしみが天井を伝って、部屋の真ん中で耐え切れず水滴となって落ちてくるらしい。これは何だ。

ひ とまず、ガムテープなどを使って、水滴を窓際まで送る「道」をこしらえて、さらに窓際の僅かな隙間から水を外へ逃がすようにしてみた。と言っても、何故こうなるのか判らなければ、解決には至らない。傘も持たずに飛び出し、外から建物を見てみることにした。

 窓付近に変わったところはないなと確認して視線を上げると、2階の窓が開いている。そんな馬鹿な。今見上げていても目を開けているのが辛いほどの雨の中、階上の住人は窓を開けて寝ているのか。

そ うではない。帰省する際、窓を開けたまま、それを忘れて出て行ったのだ。

管 理会社から連絡を受けた保険屋が何枚も天井や壁の写真を撮り、しみが残っても天井には問題ない、壁紙は無償で交換するからと言われ、それで手を打った。






 ぴょっぴょっぴょっぴょっ

今 日も今日とて、階上の部屋の主は戻っていないらしい。
まあ、いい。2階から雨漏りするよりは、いくらかましだ。


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戻りぬ
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