2003年10月の日記
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10月1日

 ひらり、と何かが視界の端を動いた気がして、足を止め空を見上げた。



 三軒茶屋の駅前にある大きなビルの裏手に、ややひっそりとした感じで郵便局が建っている。これを左に見て、右に大きなビル、すぐ前に旧街道、左前方に巨大な地下通路への入り口を兼ねたちょっとしたスペースがあり、その向こうには世田谷通りと玉川通り、さらに茶沢通りとが合流する交差点がある。玉川通りの上をなぞるように首都高速道路が走る。

 玉川通りと世田谷通りの境目、三叉路の中洲に当たる部分には、この辺では珍しいことに、さして高い建物が建っておらず、今にも崩れ落ちそうなアーケードの下に、極狭い商店が所狭しと並んでいた。そのせいか、交差点を中心に見晴らしが良い。玉川通りの向こう側にはビルが点在していて、それらはちょうど高速道路を覗き込むくらいの高さで
建っていた。



 ひらり。ふわり。郵便局の上を何か飛んでいる。強い風に煽られて舞い、何度も向きを変えるうち、持ち手のようなものが見え、ああコンビニの袋かとようやく正体がわかった。

 よろめくようにふらふらと世田谷通り通りの上を渡って、アーケードの商店街を越え、袋は一段と高く舞っていく。よその人には灰色にしか見えないこの街の青空で、ひときわ映える白さはあまりにはっきり見えすぎて、どれほどの高さにいるのかわからなかった。高速道路を楽々と越えていくから、あれよりは少し高いところを飛んでいるらしい。

 やがて玉川通りの向こうのビルの間に姿が消えようとする時、後方から同じような白いものがひらひらと後を追って行く。袋が見えなくなったのでちゃんとそちらに目を移すと、ほぼ完全な球体が飛んでいる。やはり白いが、橙の衣をまとったようにうっすらと光を帯びている。

 こちらは風に乗っているのかいないのか、上下左右に何度も小さく方向転換、あるいは進路修正を繰り返しながら、先ほどの袋の軌跡を辿り、同じように高速道路を越え、向こう側の街中へと消えていった。


 ばたん。


 大きな音がしたので慌てて振り向くと、強風で、止めてあった自転車が倒れたとわかった。持ち主が起こすのを少しの間見ていたものの、何かまだありそうな気がして、もう一度だけ後方の空を見上げてみた。



 高低2層に分かれた雲が、それぞれ別の速さで流れていた。



10月4日

 ずいぶん前のことになるが、我が家を訪れようとした知人が、近道はないかと何個か手前の角を勝手に曲がってしまい、あらぬ方へ迷い込んで行ってしまったことがあった。

 帰り道は寄り道のないようバス停に連れて行ったが、その途中問題の角を指差して、こっちのほうが近そうだった、と残念そうにつぶやいていたのを思い出す。



 この近辺の地図は複雑で、入り組んだ路地の角をひとつ間違えると、とたんにその道はぐいっと捻じ曲がって、まるで異空間へと繋がるかのように、迷い人を捕らえて別の場所へ運んでしまう。

 あるときは公園の裏口に繋がって行き止まり、あるときはどんどん細くなっていって、いつの間にか民家の庭に立っていたりする。慣れないうちは、遠回りに感じても住民の言うとおりに進むのが得策だと強くお奨めする。



 買い物から帰る時、先に我が家へ向かう角を曲がった人が踵を返すのに出会った。ちら、とこちらに目をやって急ぎ立ち去るその人が、曲がらずに進むべきだった方向へと戻って行くのを見送った後、短い路地の奥を眺めた。

 行けそうな気がするかもしれない。事実、みこしは通って行く。しかし、この路地の奥はれっきとした民家の正面玄関であり、行き止まりになっていた。

 壁に貼ってある断水の知らせに目を通し、鍵を開けて中に入る前、入り口の方を誰か通り過ぎかけ、取って返していくのが見えた。

 ご苦労様、と心の中でつぶやきながら、ちょっと意地悪い笑みが浮かんでしまった。



10月10日

 また、路地を挟んだ向かいの歯科医院の若奥様が怒鳴り散らす。

 なぜ靴下を脱いでいるの、なぜそんなに髪が乱れているの、自分がどんなに汚いか鏡で見ていらっしゃい!

 今回は2人の娘たちの言い返す声がしない。あまりの剣幕に驚いたのか、それほど後ろめたい遊びでもしていたのか。



 そういえば、この家では最近犬を飼い始めたらしい。犬と言ってもチワワで、大きめの鼠にしか見えない。それをご大層なリードで引っ張って散歩に連れ出すのは、この若奥様の役目らしい。

 まて!待てって言ってるでしょ!何度言ったらわかるの!

 予想通り、ここでもくどくどと怒鳴っている。いつまで怒っているのかと
うんざりした頃に、なんていい子なの、よくできたわね、などと猫なで声が
路地に響き渡る。ほめる時も相当にくどい。



 犬のほうはと言うと、朝の8時過ぎと夜の8時過ぎに、悲鳴のような鳴き声を上げる。食事の催促か、散歩の誘いか、いずれにしても鳴く前に希望がかなったことは一度もなかったと思う。



10月11日

 仕事の締め切りの、ギリギリまで作業しようなどと良からぬ企みをするおかげで、変な時間に寝たり起きたりが習慣になってきた。せめて午前中は寝ていたいと思うのに、このところ何かしら不意に起こしてくれる出来事が続いている。



最 初の朝は、少し前に頼んでおいたTシャツが届いた。眠い目をこすって代金を払い、また床に就いた。



 次の朝は、徒歩10分ほどのところにできた新しい牛乳販売店がやってきた。朝からお騒がせいたします、近隣の皆様にご賞味いただくだけで結構です、1週間後に瓶を回収に来ますからと言うから、冷たい飲み物の取り合わせを受け取った。

 1週間後には外に瓶を出しておけば、ドアも開けずに済むだろう。



 そのまた次の朝には、随分前にAMAZONに予約しておいたDVDが届く。予約した頃には午前中に持ってきてもらったほうが都合が良かったので、そう指定したまま忘れていた。



 今朝は仕事の問い合わせの電話が鳴る。相変わらず指導役をしているが、今度は「生徒」が1人なので、かなり楽になった。こちらの口が回らないのが少々恥ずかしいが、一応の解決を見たので、もう少し、などとつぶやきながらふとんにくるまった。

 ○○党の政治は、まさに国民生活を○○にした○○と言えるのです!

 まるで2度寝しようとするのを見ていたかのような頃合いで街頭演説が始まった。言いたいことは良くわかったが、そうまくし立てられては投票する気も失せる。

 声の主は延々と好き勝手叫んだ挙句にあっさりと引き上げた。



 では、あと少し、ちょっとだけ。



10月18日

 着メロに新機能が追加されるので、作業が増えることになった。また三多摩地区に連れて行かれ、打ち合わせとは名ばかりの説明会もどきが行われることになった。




 午前中、聞きなれた景気のいいエンジン音が近づき、電話が鳴る。お待たせしました、お迎えに上がりました、と元請けの社長が冗談を言う。長い付き合いだが、ここでうむご苦労と言えるほど気安い関係ではないので、とりあえず笑うにとどめる。

 我が家の前に横付けされたフェアレディに乗り込むといきなり、この辺に洒落たケーキ屋のようなものはあるかと尋ねられた。社長が持参するケーキの手土産はこれから赴く発注元でもかなり好評らしく、顔をあわせたことのない人たちまで、ケーキを振舞ってくれる人として認知されているそうだから、行くとなったらもう欠かすことはできないのかもしれない。

 いつもは、先方の少し手前にあるところに寄って行く。いつも同じところでは良くない、たまには違うものにしたいのだと言う。幸いこの近所には、遠方からも来客がある有名洋菓子店があり、同名のベーカリーが向かいに店を構えている。

 社長はここで待っていてくれと言ってケーキを買いに走った。戻ってくると、大小2つの袋を持っていて、小さい方を手渡しながら、これは君への土産だ、夜食にでもしてくれと言った。




 前回、同じようにこうして同乗した時と同じCDが再生されていたが、社長は急にそれを止めると、音楽より喋りが中心のラジオを聞き始めた。いつも何時ごろ起きているかと尋ねられたので、締め切りのたびにずれるがゴミの捨てられる時間には起きますと答えると、いつもこれから起きるという時間だと言う。なるほど、心地よい音楽では眠くなってしまうので、にぎやかなラジオに切り替えたということか。

 朝の東名は、下り車線という事もあってか、車の数こそばかにならないものの順調に動いている。そういえば、さっきからあれを買え、これに応募しろとうるさいラジオは、交通情報を一度も放送していない。通勤時間ではなくなっているので需要がないのだろうか。

 間の悪いことに、今日までが集中工事ということだったのだけれど、とくに不便もなく、いつものように横町インターを滑り降りて、時間通りについた。エンジンを切る直前、ラジオが交通情報です、と言い出すところまで本当に間が悪い。




 広い窓から入ってくる陽光が、日焼けでもしそうなほどいっぱい差し込んで、事務所の中は暑いくらいだった。もともとなんらかの遊興施設だったものを安く買い上げた所で、会社という雰囲気がない。むしろセキュリティには大いに問題があるのではとこちらが心配になるほど開放的な建物だった。

 来た時に社長が手渡したケーキは、茶と共にこちらにも振舞われ、まずは一服しながら概要を聞いた。どこまでが社外秘なのか知らないので、うかつに内容を漏らせないが、要は携帯に着メロをダウンロードすると、原曲のほか、ボタンによって10種類の別編曲が楽しめるものだという。実際にやって見せてもらったが、いまどきのJ-POPを音頭のリズムで聴きたい向きがあるのかは疑問に思えた。

 次に、コンピュータの並ぶ別の部屋に通され、実際にはどういうことをするのかを詳しく教えてもらうことになった。説明はわかりやすく簡潔に終わり、早速近日中にテスト納品が要求される運びとなった。




 帰路に着くと、そういえばI君の事なんだけど、と切り出された。例の、たどたどしく話すK県Y市の彼が、今になってソフトを買い取りたいから金を払うと言ってきたらしい。振込先を向こうに教えておくから値段を教えろと言われ、細かく答えた。面倒だから端数を切り上げて請求しておくと言って社長は笑った。

 この人もずいぶん若く見えるが、実際には50になった。それがたまらなく嫌らしい。48,9の時は年の話になっても若く見えるで済むが、50だと言うと皆引いてしまうので流石に年を感じてしまったらしい。その後も、およそ仕事と関係のない話を延々と続けた。

そ のうち、ラジオで読まれた若い女性の結婚話が気に入らないらしく、どうして若い女の子は結婚をハッピーだと思ってるのかわからない、と言い出した。

 細君は常務取締役で、こちらも時々顔を合わせるが、外から見る限り、2人にはどこにも結婚をハッピーでないと考えそうな理由が見当たらない。しかし、22歳で回りに段取りを決められ、気がついたら指輪を交換していたのだと言われて、それならわからなくもないと思えてきた。

 再び我が家の前に戻ってきた所で、ちょうど社長の携帯が鳴り出した。じゃあね、と言って電話に出てしまったので、言葉もなく丁寧に会釈だけして降りた。





 建物に入ってきて見ると、水道タンクの整備をしていた人たちがいない。作業のせいで日中断水する予定だったが、早く終わったらしい。こればかりは、誰のせいかは知らないが、間の良いことこの上ない。

 先日知人から貰ったパジャマに袖を通し、今日も昼寝を決め込むことにして横になってからふと、こうしているなら別に断水でも構わなかったのではないかと思い当たり、少しだけがっかりした。



10月29日

 片手を挙げて挨拶するような仕草をして、こう打つんだよ、と父が言う。ちょっとやってみろと、やけに柄の短いテニスラケットと、ミニカボチャ大の皮の厚いビーチボールのようなものを渡された。立川あたりで開発された、ミニテニスという競技だという。

 ボールを軽く投げ上げ、ラケットを挨拶の要領で下から上に振ってみると、真っ直ぐ飛ぶ。不思議なものだと面白がって、室内ではあったが壁に向かって弱めに何度も打ってみた。

 最初に指導されたときは父も面食らったらしい。気持ちよくバックスイングしてから、勢い良く打ちたかったのに、とこぼす。思い切り打つと、大きな音がして楽しいらしい。と言っているという事は、父は実際にやってみたことになる。

一 緒に行っている母のほうは、ゲームになっても挨拶形の振り方を守り続け、しまいには右の眉辺りを自ら持ったラケットで思い切り叩いてしまったらしい。片方だけ紫のアイシャドウになってしまって様になってなかった、と父は笑った。

 そこへ母がやってきて、腿も景気良く叩いて腫れ上がってしまったとか、ゲーム中に必死でボールに飛びついたあと、ネットに見事に絡まってしまったとか、そんな話ばかりを山ほど聞かせてくれた。母は、お父さんは何をやらせてもうまいけど本気出さないの、お母さんはちょっと負けん気を出し過ぎて失敗するの、と言った。

 面白そうだねえ、時間があったら一度やってみたいねと言うと、父が、名簿に10人いないと公共施設が借りられないのに人数が足りなかったから、お前の名前も書いて届け出てある、いつでも参加できるぞ、と言った。弟も、もちろん会員らしい。



10月30日

 早朝のTVで、お台場は気持ちよく晴れています、などと言われながら映る空をご覧になったことがおありだろうか。

 灰色がかった水色というのか、青空と呼ぶには白すぎるというのか、あれが他所から来た人には辛いらしい。知人の中にも、空が青くないと言って、週末ごとに緑と青空を求めて遠くへ出かけて行く連中が少なからずいた。




 行政が敷く有線放送と言うのは、23区内ではほとんど使われることがないが、工業地帯に近い地域を含む区の場合は少し違う。一体どこについているんだと首をかしげるような所に隠されたスピーカーが鳴り出すのは、決まって光化学スモッグの発生が告げられる時だった。

 小さかった頃から変わらない。あの白く汚れた青空が視界の限り続くようなら、次に雲が出るときには注意しなければならない

 今住んでいる所ではスモッグ注意報は放送されないから、ちょっと外に出る間も雲が出ないかと、ちらちら上目づかいになる。その横を学校帰りの小学生たちが走って追い抜いていく。彼らは空など気にしない。今後するようになるのか、また慣れきってしないままでいるのか、それとも、いずれ気にする頃には既に郊外に引っ越しているのか。

 建築現場や高速道路などの工業的な部分も、原風景として胸の奥にしっかり刻まれているけれど、この空はこうで当たり前で、あまりにも目に馴染んでいて、それでいてどこかで決して愛することのできないものとして、心の中で別の場所に仕切りを作ってしまいこんである。




 日が暮れて、またちょっとした買い物に出る。街の灯りに照らされた空は夜もはっきり見え、雲の波は陰影を強めて不気味ですらある。しかし、この空に光化学スモッグが現れることはない。そのせいか、空を見上げることも少ない。

 月と、火星と、まれに金星と。この夜空に星はたいてい3つしかない。盆暮れ正月には、幾人かの友人が現れるようだけれど。


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