隣家の親父さんによれば、「見かけた時に連れている女性がいつも同じである男性」を旦那さんと呼ぶのだそうだ。ぼくは独身ですからと何度嫌がって見せても、そう呼ぶのをやめてくれそうな気配は全くない。
発音せぬが如き「な」が途中に入っているおかげで、字で書こうとするとダンッサンとでも書くしかないような、妙な呼び名がついてからだいぶ経つ。他にそう呼ぶ人もないし、行き止まりの路地の中でだけのことだから、もうこのままでも良いかな、と思えるようになってからさえ、もう結構な年数が経ったと思う。
旦那さん聞いツくだァいよ、ウチの向かいのぉ~ホレ、そこの純和風の玄関に立ち小便するやつがいるんだ、路地に柵を立てても効果がない、今度見つけたらタダじゃおかねえ──といつも通り元気にまくしたてる親父さんだったが、近頃は話の最後に泣きが入るようになった。
暮らしにくくなったよねえ、静かだった通りにも車が多く通るようになったし、店が増えたから夜中うるさいし、おかげで騒音のストレスから奥のバアサンは睡眠不足で倒れて・・・結局亡くなったし、連れ合いのジイサンも後を追うように・・・ありゃ孤独死ってやつだったよ、というのがすっかりひとまとめの決まり文句のようになってしまった。ここ最近ではそこへ更に、俺ぁもう八十一なんだ、というのが加わる。
そんなんで宜しくお願いします、と意味を成さないシメの言葉を親父さんが発したら、サヨウナラの合図。お互いの姿がそれぞれの建物に消えて見えなくなるまで、向き合ったまま何度も何度も礼をしながら別れる。
あちらの玄関の戸が閉まる音がするとふいに、長生きって何だろう、健康って幸せなんだろうかとつぶやきたくなる。かつて隣家の犬小屋にいた、最期まで散歩をやめなかったコロちゃんの勇姿を思い出すと、ますます生き死にというのを考えずにはいられなくなる。
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